P--733 P--734 P--735 #1親鸞聖人御消息    親鸞聖人御消息 #21 (1) 有念無念の事  来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸 行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・ 五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真 実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつ ことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎 の儀則をまたず。  正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、か ならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心とい ふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。  また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散 P--736 心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定 散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善 なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生 るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向し て往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終 まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。  選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつ きていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもは ずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふは、す でに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この 世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等 の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたま へる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権と いふなり。 P--737  浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。 浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あ り、よくよくとふべし。  浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散 二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大 乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり。釈迦如来の 御善知識は一百一十人なり、『華厳経』にみえたり。 南無阿弥陀仏    建長三歳[辛亥]閏九月二十日                    愚禿親鸞[七十九歳] #22 (2)  かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候 ふ。明教房ののぼられて候ふこと、ありがたきことに候ふ。かたがたの御こ ころざし、申しつくしがたく候ふ。明法御房の往生のこと、おどろきまうす べきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやう P--738 の往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。またひらつか の入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ 候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず。おのおのみな往生は一定とおぼしめ すべし。さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御中にも、御こころ えぬことも候ひき、いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。京にもこころえずし て、やうやうにまどひあうて候ふめり。くにぐににもおほくきこえ候ふ。法然 聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびと も、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもま どはして、わづらひあうて候ふめり。  聖教のをしへをもみずしらぬ、おのおののやうにおはしますひとびとは、 往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こころえあること、お ほく候ひき。いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。浄土の教もしらぬ信見房な どが申すことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき 候ふこそあさましく候へ。  まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずお P--739 はしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひを もききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・ 瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめ しより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まず して、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞか し。  しかるになほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬ になほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればと て、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきこ とをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころの ままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候 へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をす すめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞ おぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひ とびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひ P--740 すてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。  はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわ ろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこ そ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞ とは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるに は、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひ をも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのま まにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、い まはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふし るしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこる とこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いか がむかしの御こころのままにては候ふべき。  この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。 師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよし きき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。な P--741 れむつぶべからず。『浄土論』(論註・上)と申すふみには、「かやうのひとは 仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」(意)と候ふめり。ま た至誠心のなかには、「かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、ち かづくべからず」(散善義・意)とこそ説かれて候へ。善知識・同行にはしたし みちかづけとこそ説きおかれて候へ。  悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生 利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。それも わがはからひにはあらず、弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさ まのふるまひも候はんずれ。当時はこの身どものやうにては、いかが候ふべか るらんとおぼえ候ふ。よくよく案ぜさせたまふべく候ふ。  往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心 をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候 はじとこそおぼえ候へ。この文をもつて鹿島・行方・南の荘、いづかたもこれ にこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく 候ふ。あなかしこ、あなかしこ。 P--742    建長四年二月二十四日 #23 (3)  この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。 明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。ひとびと の御こころざしも、ありがたくおぼえ候ふ。かたがたこのひとびとののぼり、 不思議のことに候ふ。この文をたれたれにもおなじこころによみきかせたまふ べく候ふ。この文は奥郡におはします同朋の御中に、みなおなじく御覧候ふべ し。あなかしこ、あなかしこ。  としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもお もひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世を いとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ。よくよく御こころえ候ふべし。 #24 (4)  御文たびたびまゐらせ候ひき。御覧ぜずや候ひけん。なにごとよりも明法 御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざ しおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。往生はともかくも P--743 凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。めでたき智者もはからふべきこ とにも候はず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、ただ願力にまかせ てこそおはしますことにて候へ。ましておのおののやうにおはしますひとびと は、ただこのちかひありときき、南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、あ りがたくめでたく候ふ御果報にては候ふなれ。とかくはからはせたまふこと、 ゆめゆめ候ふべからず。さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』 なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとに ておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみ どもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人 の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さ ればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。  おほかたは、としごろ念仏申しあひたまふひとびとのなかにも、ひとへにわ がおもふさまなることをのみ申しあはれて候ふひとびとも候ひき。いまもさぞ 候ふらんとおぼえ候ふ。明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議 のひがことをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひし P--744 か。われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもお もひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくも候はず。貪欲の煩悩 にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果 をやぶるこころもおこり、愚痴の煩悩にまどはされておもふまじきことなども おこるにてこそ候へ。めでたき仏の御ちかひのあればとて、わざとすまじきこ とどもをもし、おもふまじきことどもをもおもひなどせんは、よくよくこの世 のいとはしからず、身のわろきことをおもひしらぬにて候へば、念仏にこころ ざしもなく、仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさぬにて候へば、念仏せ させたまふとも、その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべから ん。よくよくこのよしをひとびとにきかせまゐらせさせたまふべく候ふ。かや うにも申すべくも候はねども、なにとなくこの辺のことを御こころにかけあは せたまふひとびとにておはしましあひて候へば、かくも申し候ふなり。この世 の念仏の義はやうやうにかはりあうて候ふめれば、とかく申すにおよばず候へ ども、故聖人(法然)の御をしへをよくよくうけたまはりておはしますひとび とは、いまももとのやうにかはらせたまふこと候はず。世かくれなきことなれ P--745 ば、きかせたまひあうて候ふらん。浄土宗の義、みなかはりておはしましあう て候ふひとびとも、聖人(法然)の御弟子にて候へども、やうやうに義をもい ひかへなどして、身もまどひ、ひとをもまどはかしあうて候ふめり。あさまし きことにて候ふなり。京にもおほくまどひあうて候ふめり。まして、ゐなかは さこそ候ふらめと、こころにくくも候はず。なにごとも申しつくしがたく候 ふ。またまた申し候ふべし。 #25 (5)  善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おや をそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。されば北の 郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信(親鸞)をやうやうにそしり候ひしか ば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。明法御房の往生 のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、その同朋にあらず候ふ べし。無明の酒に酔ひたる人にいよいよ酔ひをすすめ、三毒をひさしく好みく らふひとにいよいよ毒をゆるして好めと申しあうて候ふらん、不便のことに候 ふ。無明の酒に酔ひたることをかなしみ、三毒を好みくうて、いまだ毒も失せ P--746 はてず、無明の酔ひもいまださめやらぬにおはしましあうて候ふぞかし。よく よく御こころえ候ふべし。 #26 (6)  笠間の念仏者の疑ひとはれたる事  それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすで に天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。  まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念 し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・ 口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ を自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選 択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如 来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごと にてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力な れば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義な しとなり。 P--747  しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべから ず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわ がこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実 の報土へ生るべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺 地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、う けたまはりたりし。第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、 不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来 とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころを えらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれ ば恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下)には、本願の念仏を信楽するあ りさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意) と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐ らせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。しかれば、「無明煩悩を具し て安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如 来説きたまへり。 P--748  しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがた かるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまふ」(散善義・意)と、善導 和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、 本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」(同・意) とあかせり。しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大 経・下意)とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人 を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金 剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、 最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位に定 まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真 実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。  この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたると しるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる 人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしるこ とあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人 P--749 (法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。  仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、 弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思 議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いか にいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よく よく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず 候ふ。ゆめゆめ。    建長七歳乙卯十月三日                    愚禿親鸞八十三歳これを書く。 #27 (7)  四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せ られたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もな し、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の 名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、も しは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもな P--750 きを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするときき て疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行な しとおぼしめすべし。  これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを 申すなり。あなかしこ、あなかしこ。  いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。    五月二十八日           (花押)   覚信御房 御返事  専信坊、京ちかくなられて候ふこそ、たのもしうおぼえ候へ。また、御ここ ろざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。  [「建長八歳丙辰五月二十八日親鸞聖人御返事」] #28 (8)  この御文どものやう、くはしくみ候ふ。また、さては慈信が法文のやうゆゑ に、常陸・下野の人々、念仏申させたまひ候ふことの、としごろうけたまはり たるやうには、みなかはりあうておはしますときこえ候ふ。かへすがへすここ P--751 ろうくあさましくおぼえ候ふ。としごろ往生を一定と仰せられ候ふ人々、慈信 とおなじやうに、そらごとをみな候ひけるを、としごろふかくたのみまゐらせ て候ひけること、かへすがへすあさましう候ふ。  そのゆゑは、往生の信心と申すことは、一念も疑ふことの候はぬをこそ、往 生一定とはおもひて候へ。光明寺の和尚(善導)の信のやうををしへさせたま ひ候ふには、「まことの信を定められてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦の ごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがことなりと 仰せらるとも、一念も疑あるべからず」とこそうけたまはりて候へば、その やうをこそ、としごろ申して候ふに、慈信ほどのものの申すことに、常陸・下 野の念仏者の、みな御こころどものうかれて、はては、さしもたしかなる証文 を、ちからを尽して数あまた書きてまゐらせて候へば、それをみなすてあうて おはしまし候ふときこえ候へば、ともかくも申すにおよばず候ふ。  まづ慈信が申し候ふ法文のやう、名目をもきかず。いはんやならひたること も候はねば、慈信にひそかにをしふべきやうも候はず。また夜も昼も慈信一人 に、人にはかくして法文をしへたること候はず。もしこのこと、慈信に申しな P--752 がら、そらごとをも申しかくして、人にもしらせずしてをしへたること候は ば、三宝を本として三界の諸天善神・四海の竜神八部・閻魔王界の神祇冥道 の罰を、親鸞が身にことごとくかぶり候ふべし。  自今以後は、慈信におきては、子の義おもひきりて候ふなり。世間のことに も、不可思議のそらごと、申すかぎりなきことどもを、申しひろめて候へば、 出世のみにあらず、世間のことにおきても、おそろしき申しごとども数かぎり なく候ふなり。なかにも、この法文のやうきき候ふに、こころもおよばぬ申し ごとにて候ふ。つやつや親鸞が身には、ききもせず、ならはぬことにて候ふ。 かへすがへすあさましう、こころうく候ふ。弥陀の本願をすてまゐらせて候ふ ことに、人々のつきて、親鸞をもそらごと申したるものになして候ふ。こころ うく、うたてきことに候ふ。  おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の 証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が 法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふら んこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せら P--753 るべからず候ふ。  また、『真宗の聞書』、性信房の書かせたまひたるは、すこしもこれに申して 候ふやうにたがはず候へば、うれしう候ふ。『真宗の聞書』一帖はこれにとど めおきて候ふ。  また哀愍房とかやの、いまだみもせず候ふ。また文一度もまゐらせたること もなし。くによりも文たびたることもなし。親鸞が文を得たると申し候ふなる は、おそろしきことなり。この『唯信鈔』かきたるやう、あさましう候へば、 火にやき候ふべし。かへすがへすこころうく候ふ。この文を人々にもみせさせ たまふべし。あなかしこ、あなかしこ。    五月二十九日           親鸞   性信房御返事  なほなほよくよく念仏者達の信心は一定と候ひしことは、みな御そらごとど もにて候ひけり。これほどに第十八の願をすてまゐらせあうて候ふ人々の御こ とばをたのみまゐらせて、としごろ候ひけるこそ、あさましう候ふ。この文を かくさるべきことならねば、よくよく人々にみせまうしたまふべし。 P--754 #29 (9)  仰せられたること、くはしくききて候ふ。なによりは、哀愍房とかやと申す なる人の、京より文を得たるとかやと申され候ふなる、かへすがへす不思議に 候ふ。いまだかたちをもみず、文一度もたまはり候はず、これよりも申すこと もなきに、京より文を得たると申すなる、あさましきことなり。  また慈信房の法文のやう、名目をだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、 夜親鸞がをしへたるなりと、人に慈信房申されて候ふとて、これにも常陸・下 野の人々は、みな親鸞がそらごとを申したるよしを申しあはれて候へば、いま は父子の義はあるべからず候ふ。  また母の尼にも不思議のそらごとをいひつけられたること、申すかぎりなき こと、あさましう候ふ。みぶの女房の、これへきたりて申すこと、慈信房がた うたる文とてもちてきたれる文、これにおきて候ふめり。慈信房が文とてこれ にあり。その文、つやつやいろはぬことゆゑに、ままははにいひまどはされた るとかかれたること、ことにあさましきことなり。世にありけるを、ままはは の尼のいひまどはせりといふこと、あさましきそらごとなり。またこの世にい かにしてありけりともしらぬことを、みぶの女房のもとへも文のあること、こ P--755 ころもおよばぬほどのそらごと、こころうきことなりとなげき候ふ。  まことにかかるそらごとどもをいひて、六波羅の辺、鎌倉なんどに披露せら れたること、こころうきことなり。これらほどのそらごとはこの世のことなれ ば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいふこと、うたてきなり。い かにいはんや、往生極楽の大事をいひまどはして、常陸・下野の念仏者をまど はし、親にそらごとをいひつけたること、こころうきことなり。  第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせた りときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまど はさるること、かなしきことなり。  ことに破僧の罪と申す罪は、五逆のその一つなり。親鸞にそらごとを申しつ けたるは、父を殺すなり、五逆のその一つなり。このことどもつたへきくこ と、あさましさ申すかぎりなければ、いまは親といふことあるべからず、子と おもふことおもひきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことな り。わが法門に似ずとて、常陸の念仏者みなまどはさんと好まるるときくこ そ、こころうく候へ。親鸞がをしへにて、常陸の念仏申す人々を損ぜよと慈信 P--756 房にをしへたると鎌倉まできこえんこと、あさまし、あさまし。       同六月二十七日到来    五月二十九日          (在判)      建長八年六月二十七日これを註す。     慈信房御返事      嘉元三年七月二十七日これを書写しをはんぬ。 #210 (10)  また五説といふは、よろづの経を説かれ候ふに、五種にはすぎず候ふなり。 一には仏説、二には聖弟子の説、三には天仙の説、四には鬼神の説、五には変 化の説といへり。この五つのなかに、仏説をもちゐてかみの四種をたのむべか らず候ふ。この三部経は釈迦如来の自説にてましますとしるべしとなり。四土 といふは、一には法身の土、二には報身の土、三には応身の土、四には化土な り。いまこの安楽浄土は報土なり。三身といふは、一には法身、二には報身、 三には応身なり。いまこの弥陀如来は報身如来なり。三宝といふは、一には 仏宝、二には法宝、三には僧宝なり。いまこの浄土宗は仏宝なり。四乗といふ P--757 は、一には仏乗、二には菩薩乗、三には縁覚乗、四には声聞乗なり。いまこ の浄土宗は菩薩乗なり。二教といふは、一には頓教、二には漸教なり。いまこ の教は頓教なり。二蔵といふは、一には菩薩蔵、二には声聞蔵なり。いまこの 教は菩薩蔵なり。二道といふは、一には難行道、二には易行道なり。いまこの 浄土宗は易行道なり。二行といふは、一には正行、二には雑行なり。いまこ の浄土宗は正行を本とするなり。二超といふは、一には竪超、二には横超な り。いまこの浄土宗は横超なり。竪超は聖道自力なり。二縁といふは、一には 無縁、二には有縁なり。いまこの浄土は有縁の教なり。二住といふは、一には 止住、二には不住なり。いまこの浄土の教は、法滅百歳まで住したまひて、有 情を利益したまふとなり。不住は聖道諸善なり。諸善はみな竜宮へかくれいり たまひぬるなり。思・不思といふは、思議の法は聖道八万四千の諸善なり。不 思といふは浄土の教は不可思議の教法なり。  これらはかやうにしるしまうしたり。よくしれらんひとに尋ねまうしたまふ べし。またくはしくはこの文にて申すべくも候はず。目もみえず候ふ。なにご ともみなわすれて候ふうへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ。 P--758 よくよく浄土の学生にとひまうしたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。    閏三月三日            親鸞 #211 (11)  信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と 申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚とな づけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれど も、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、 補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆ ゑに、弥勒におなじと説きたまへり。  さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちか くましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじ位な れば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、こ の身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、 如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にそ の心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきと申すなり。 P--759 浄土真実のひともこのこころをこころうべきなり。  光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、「信心のひとは、その心すでにつね に浄土に居す」(意)と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひと のこころつねにゐたり、といふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを 申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来と ひとしと申すこころなり。    正嘉元年丁巳十月十日       親鸞    性信御房 #212 (12)  これは『経』の文なり。『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」 といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろ もろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみ ことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の 第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」(大 経・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下)には、「よろづの仏にほめられ、 P--760 よろこびたまふ」(意)とみえたり。  すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらは ししるすなり。    正嘉元年丁巳十月十日       親鸞    真仏御房 #213 (13)    畏まりて申し候ふ。    『大無量寿経』(下)に「信心歓喜」と候ふ。『華厳経』を引きて『浄   土和讃』(九四)にも、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときた   まふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」と仰せられて候ふに、   専修の人のなかに、ある人こころえちがへて候ふやらん、信心よろこぶ人   を如来とひとしと同行達ののたまふは自力なり、真言にかたよりたりと申   し候ふなるは、人のうへを知るべきに候はねども申し候ふ。    また、「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくら   ゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ」(同・五九)と候ふ。「滅度を P--761   さとらしむ」と候ふは、この度この身の終り候はんとき、真実信心の行者   の心、報土にいたり候ひなば、寿命無量を体として、光明無量の徳用はな   れたまはざれば、如来の心光に一味なり。このゆゑ、「大信心は仏性なり、   仏性はすなはち如来なり」と仰せられて候ふやらん。これは十一・二・三   の御誓とこころえられ候ふ。罪悪のわれらがためにおこしたまへる大悲の   御誓の目出たくあはれにましますうれしさ、こころもおよばれず、こと   ばもたえて申しつくしがたきこと、かぎりなく候ふ。無始曠劫よりこのか   た、過去遠々に恒沙の諸仏の出世の所にて大菩提心おこすといへども、自   力かなはず、二尊の御方便にもよほされまゐらせて、雑行雑修・自力疑心   のおもひなし。無碍光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、疑心なくよ   ろこびまゐらせて、一念までの往生定まりて、誓願不思議とこころえ候ひ   なんには、聞き見候ふにあかぬ浄土の聖教も、知識にあひまゐらせんとお   もはんことも、摂取不捨も、信も、念仏も、人のためとおぼえられ候ふ。    いま師主の御教のゆゑ、心をぬきて御こころむきをうかがひ候ふにより   て、願意をさとり、直道をもとめえて、まさしき真実報土にいたり候はん P--762   こと、この度一念聞名にいたるまで、うれしさ御恩のいたり、そのうへ   『弥陀経義集』におろおろあきらかにおぼえられ候ふ。しかるに世間のそ   うそうにまぎれて、一時もしくは二時、三時おこたるといへども、昼夜に   わすれず、御あはれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不   浄をもきらはず、一向に金剛の信心ばかりにて、仏恩のふかさ、師主の恩   徳のうれしさ、報謝のためにただ御名をとなふるばかりにて、日の所作と   せず。このやうひがざまにか候ふらん。一期の大事、ただこれにすぎたる   はなし。しかるべくは、よくよくこまかに仰せを蒙り候はんとて、わづか   におもふばかりを記して申しあげ候ふ。    さては、京にひさしく候ひしに、そうそうにのみ候ひて、こころしづか   におぼえず候ひしことのなげかれ候ひて、わざといかにしてもまかりのぼ   りて、こころしづかに、せめては五日、御所に候はばやとねがひ候ふな   り。噫、かうまで申し候ふも御恩のちからなり。    進上 聖人(親鸞)の御所へ   蓮位御坊申させたまへ      十月十日             慶信上(花押) P--763   追つて申しあげ候ふ。    念仏申し候ふ人々のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍   光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。これをききて、ある人の申し候ふ   なる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへ   まゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申   し候ふなる、このやういかが候ふべき。  南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふ なるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。帰命は南無なり、無碍光仏は 光明なり、智慧なり、この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたち をしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんと て、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。このほかのこ とは、少々文字をなほしてまゐらせ候ふなり。    この御文のやう、くはしく申しあげて候ふ。すべてこの御文のやう、た P--764   がはず候ふと仰せ候ふなり。ただし、「一念するに往生定まりて誓願不思   議とこころえ候ふ」と仰せ候ふをぞ、よきやうには候へども、一念にとど   まるところあしく候ふとて、御文のそばに御自筆をもつて、あしく候ふ   よしを入れさせおはしまして候ふ。蓮位にかく入れよと仰せをかぶりて候   へども、御自筆はつよき証拠におぼしめされ候ひぬとおぼえ候ふあひだ、   をりふし御咳病にて御わづらひにわたらせたまひ候へども、申して候ふな   り。    またのぼりて候ひし人々、くにに論じまうすとて、あるいは弥勒とひと   しと申し候ふ人々候ふよしを申し候ひしかば、しるし仰せられて候ふ文の   候ふ。しるしてまゐらせ候ふなり。御覧あるべく候ふ。また弥勒とひとし   と候ふは、弥勒は等覚の分なり、これは因位の分なり、これは十四・十五   の月の円満したまふが、すでに八日・九日の月のいまだ円満したまはぬほ   どを申し候ふなり。これは自力修行のやうなり。われらは信心決定の凡   夫、位〔は〕正定聚の位なり。これは因位なり、これ等覚の分なり。かれ   は自力なり、これは他力なり。自他のかはりこそ候へども、因位の位はひ P--765   としといふなり。また弥勒の妙覚のさとりはおそく、われらが滅度にいた   ることは疾く候はんずるなり。かれは五十六億七千万歳のあかつきを期   し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸・頓のなかの頓、これ   は頓のなかの頓なり。滅度といふは妙覚なり。曇鸞の『註』(論註・下)に   いはく、「樹あり、好堅樹といふ。この木、地の底に百年わだかまりゐて、   生ふるとき一日に百丈生ひ候ふ」(意)なるぞ。この木、地の底に百年候   ふは、われらが娑婆世界に候ひて、正定聚の位に住する分なり、一日に   百丈生ひ候ふなるは、滅度にいたる分なり、これにたとへて候ふなり。   これは他力のやうなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これ   はおそし、自力修行のやうなり。    また如来とひとしといふは、煩悩成就の凡夫、仏の心光に照らされまゐ   らせて信心歓喜す。信心歓喜するゆゑに正定聚の数に住す。信心といふ   は智なり。この智は、他力の光明に摂取せられまゐらせぬるゆゑにうると   ころの智なり。仏の光明も智なり。かるがゆゑに、おなじといふなり。お   なじといふは、信心をひとしといふなり。歓喜地といふは、信心を歓喜す P--766   るなり。わが信心を歓喜するゆゑにおなじといふなり。くはしく御自筆に   しるされて候ふを、書き写してまゐらせ候ふ。    また南無阿弥陀仏と申し、また無碍光如来ととなへ候ふ御不審も、くは   しく自筆に御消息のそばにあそばして候ふなり。かるがゆゑに、それより   の御文をまゐらせ候ふ。あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、   御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには   無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おな   じく候ふなり。    そもそも覚信坊のこと、ことにあはれにおぼえ、またたふとくもおぼえ   候ふ。そのゆゑは、信心たがはずしてをはられて候ふ。また、たびたび信   心存知のやう、いかやうにかとたびたび申し候ひしかば、当時まではたが   ふべくも候はず。いよいよ信心のやうはつよく存ずるよし候ひき。のぼり   候ひしに、くにをたちて、ひといちと申ししとき、病みいだして候ひしか   ども、同行たちは帰れなんど申し候ひしかども、「死するほどのことなら   ば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰 P--767   るともやみ、とどまるともやみ候はんず。おなじくは、みもとにてこそを   はり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」と、御ものがたり   候ひしなり。この御信心まことにめでたくおぼえ候ふ。善導和尚の釈(散   善義)の二河の譬喩におもひあはせられて、よにめでたく存じ、うらやま   しく候ふなり。をはりのとき、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可   思議光如来ととなへられて、手をくみてしづかにをはられて候ひしなり。   またおくれさきだつためしは、あはれになげかしくおぼしめされ候ふと   も、さきだちて滅度にいたり候ひぬれば、かならず最初引接のちかひを   おこして、結縁・眷属・朋友をみちびくことにて候ふなれば、しかるべく   おなじ法文の門に入りて候へば、蓮位もたのもしくおぼえ候ふ。また、親   となり、子となるも、先世のちぎりと申し候へば、たのもしくおぼしめさ   るべく候ふなり。このあはれさたふとさ、申しつくしがたく候へばとどめ   候ひぬ。いかにしてか、みづからこのことを申し候ふべきや、くはしくは   なほなほ申し候ふべく候ふ。この文のやうを御まへにてあしくもや候ふと   て、よみあげて候へば、「これにすぐべくも候はず、めでたく候ふ」と仰 P--768   せをかぶりて候ふなり。ことに覚信坊のところに、御涙をながさせたまひ   て候ふなり。よにあはれにおもはせたまひて候ふなり。      十月二十九日         蓮位      慶信御坊へ #214 (14)  自然法爾の事  「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、 「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者の はからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」とい ふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法 爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、こ の法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざ るなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。  「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ち かひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたま P--769 ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしか らんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。  ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申す は、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。 かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬ やうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。  弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、 この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せ ば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不 思議にてあるなるべし。    正嘉二年十二月十四日                     愚禿親鸞[八十六歳] #215 (15)  閏十月一日の御文、たしかにみ候ふ。かくねむばうの御こと、かたがたあ はれに存じ候ふ。親鸞はさきだちまゐらせ候はんずらんと、まちまゐらせてこ P--770 そ候ひつるに、さきだたせたまひ候ふこと、申すばかりなく候ふ。かくしんば う、ふるとしごろは、かならずかならずさきだちてまたせたまひ候ふらん。か ならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ。かくねんばうの 仰せられて候ふやう、すこしも愚老にかはらずおはしまし候へば、かならずか ならず一つところへまゐりあふべく候ふ。明年の十月のころまでも生きて候は ば、この世の面謁疑なく候ふべし。入道殿の御こころも、すこしもかはらせ たまはず候へば、さきだちまゐらせても、まちまゐらせ候ふべし。人々の御こ ころざし、たしかにたしかにたまはりて候ふ。なにごともなにごとも、いの ち候ふらんほどは申すべく候ふ、また仰せをかぶるべく候ふ。この御文みまゐ らせ候ふこそ、ことにあはれに候へ。なかなか申し候ふもおろかなるやうに候 ふ。またまた、追つて申し候ふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。    閏十月二十九日          親鸞(花押)   高田の入道殿御返事 #216 (16)  なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふら P--771 んことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説き おかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信 (親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正 定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでた く候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、す こしもたがはず候ふなり。としごろおのおのに申し候ひしこと、たがはずこそ 候へ、かまへて学生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし。  故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たし かにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐり たるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候 ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあら んずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ 候ふなり。ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずし て、おのおの御往生候ふべきなり。ただし、ひとにすかされさせたまひ候は ずとも、信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる P--772 人なり。  乗信房にかやうに申し候ふやうを、ひとびとにも申され候ふべし。あなかし こ、あなかしこ。   文応元年十一月十三日        善信[八十八歳]   乗信御房 #217 (17)  さては、念仏のあひだのことによりて、ところせきやうにうけたまはり候 ふ。かへすがへすこころぐるしく候ふ。詮ずるところ、そのところの縁ぞ尽き させたまひ候ふらん。念仏をさへらるなんど申さんことに、ともかくもなげき おぼしめすべからず候ふ。念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ、申し たまふひとは、なにかくるしく候ふべき。余のひとびとを縁として、念仏をひ ろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。そのとこ ろに念仏のひろまり候はんことも、仏天の御はからひにて候ふべし。  慈信坊がやうやうに申し候ふなるによりて、ひとびとも御こころどものやう やうにならせたまひ候ふよし、うけたまはり候ふ。かへすがへす不便のことに P--773 候ふ。ともかくも仏天の御はからひにまかせまゐらせさせたまふべし。そのと ころの縁尽きておはしまし候はば、いづれのところにてもうつらせたまひ候う ておはしますやうに御はからひ候ふべし。慈信坊が申し候ふことをたのみおぼ しめして、これよりは余の人を強縁として念仏ひろめよと申すこと、ゆめゆめ 申したること候はず。きはまれるひがことにて候ふ。この世のならひにて念仏 をさまたげんことは、かねて仏の説きおかせたまひて候へば、おどろきおぼし めすべからず。やうやうに慈信坊が申すことを、これより申し候ふと御こころ え候ふ、ゆめゆめあるべからず候ふ。法門のやうも、あらぬさまに申しなして 候ふなり。御耳にききいれらるべからず候ふ。きはまれるひがことどものきこ え候ふ。あさましく候ふ。  入信坊なんども不便におぼえ候ふ。鎌倉に長居して候ふらん、不便に候ふ。 当時、それもわづらふべくてぞ、さても候ふらん、ちからおよばず候ふ。  奥郡のひとびとの、慈信坊にすかされて、信心みなうかれあうておはしまし 候ふなること、かへすがへすあはれにかなしうおぼえ候ふ。これもひとびとを すかしまうしたるやうにきこえ候ふこと、かへすがへすあさましくおぼえ候 P--774 ふ。それも日ごろひとびとの信の定まらず候ひけることのあらはれてきこえ候 ふ。かへすがへす不便に候ひけり。  慈信坊が申すことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあうておはし まし候ふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれ て候ふ。よきことにて候ふ。それをひとびとは、これより申したるやうにおぼ しめしあうて候ふこそ、あさましく候へ。  日ごろやうやうの御ふみどもを、かきもちておはしましあうて候ふ甲斐もな くおぼえ候ふ。『唯信鈔』、やうやうの御ふみどもは、いまは詮なくなりて候ふ とおぼえ候ふ。よくよくかきもたせたまひて候ふ法門は、みな詮なくなりて候 ふなり。慈信坊にみなしたがひて、めでたき御ふみどもはすてさせたまひあう て候ふときこえ候ふこそ、詮なくあはれにおぼえ候へ。よくよく『唯信鈔』・ 『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ。年ごろ信ありと仰せられあうて候ひ けるひとびとは、みなそらごとにて候ひけりときこえ候ふ。あさましく候ふ、 あさましく候ふ。なにごともなにごとも、またまた申し候ふべし。   正月九日       親鸞 P--775   真浄御坊 #218 (18)  なにごとよりは、如来の御本願のひろまらせたまひて候ふこと、かへすがへ すめでたく、うれしく候ふ。そのことに、おのおのところどころに、われは といふことをおもうて、あらそふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。京にも一 念・多念なんど申すあらそふことのおほく候ふやうにあること、さらさら候ふ べからず。ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御 ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。い づかたのひとびとにも、このこころを仰せられ候ふべし。なほおぼつかなきこ とあらば、今日まで生きて候へば、わざともこれへたづねたまふべし。また便 にも仰せたまふべし。鹿島・行方、そのならびのひとびとにも、このこころを よくよく仰せらるべし。一念・多念のあらそひなんどのやうに、詮なきこと、 論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり。あ なかしこ、あなかしこ。  かやうのことをこころえぬひとびとは、そのこととなきことを申しあはれて P--776 候ふぞ、よくよくつつしみたまふべし。かへすがへす。    二月三日             親鸞 #219 (19)  諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、 十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料と きこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずる ところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来 の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正 覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこ そ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とす とこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。かやうに義の候ふらんかぎりは、他 力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて 候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏 と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義 なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。 P--777 他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。このひとびとの仰せのやう は、これにはつやつやとしらぬことにて候へば、とかく申すべきにあらず候 ふ。また「来」の字は、衆生利益のためには、きたると申す、方便なり。さと りをひらきては、かへると申す。ときにしたがひて、きたるともかへるとも申 すとみえて候ふ。なにごともなにごとも、またまた申すべく候ふ。    二月九日             親鸞   慶西御坊 御返事 #220 (20)    無碍光如来の慈悲光明に摂取せられまゐらせ候ふゆゑ、名号をとなへつ   つ不退の位に入り定まり候ひなんには、この身のために摂取不捨をはじめ   てたづぬべきにはあらずとおぼえられて候ふ。そのうへ『華厳経』に、   「聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道与諸如来等」と仰せられて候ふ。ま   た第十七の願に「十方無量の諸仏にほめとなへられん」と仰せられて候   ふ。また願成就の文(大経・下)に、「十方恒沙の諸仏」と仰せられて候ふ   は、信心の人とこころえて候ふ。この人はすなはちこの世より如来とひと P--778   しとおぼえられ候ふ。このほかは凡夫のはからひをばもちゐず候ふなり。   このやうをこまかに仰せかぶりたまふべく候ふ。恐々謹言。    二月十二日           浄信  如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆ ゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金 剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚に いたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入ると も申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよ ろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの 信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申す なり。この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、 「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生しての ちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すと は申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへ P--779 ば、仏とひとしとは申すことなり。  また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者 のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましま すゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒 菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこ ころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、 人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。                     親鸞(花押) #221 (21)  安楽浄土に入りはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また無上覚をさと るとも、滅度にいたるとも申すは、御名こそかはりたるやうなれども、これみ な法身と申す仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩 われらに回向したまへるを、往相の回向と申すなり。この回向せさせたまへる 願を、念仏往生の願(第十八願)とは申すなり。この念仏往生の願を一向に信じ P--780 てふたごころなきを、一向専修とは申すなり。如来二種の回向と申すことは、 この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す。この真実 の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしら せたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。 #222 (22)  いやをんなのこと、文書きてまゐらせられ候ふなり。いまだ居所もなくて、 わびゐて候ふなり、あさましくあさましく、もてあつかひて、いかにすべしと もなくて候ふなり。あなかしこ。    三月二十八日           (花押)   わうごぜんへ            しんらん #223 (23)  誓願・名号同一の事  御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては、この御不審しかるべしともおぼ えず候ふ。そのゆゑは、誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をは P--781 なれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふ も、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一 念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。ききわけ、し りわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふ なり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往 生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。あなかしこ、あなか しこ。  ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。    五月五日             親鸞   教名御房  [端書にいはく]  この文をもつて、ひとびとにもみせまゐらせさせたまふべく候ふ。他力には 義なきを義とすとは申し候ふなり。 #224 (24)  仏智不思議と信ずべき事 P--782  御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては御法門の御不審に、一念発起のと き、無碍の心光に摂護せられまゐらせ候ふゆゑに、つねに浄土の業因決定すと 仰せられ候ふ。これめでたく候ふ。かくめでたくは仰せ候へども、これみなわ たくしの御はからひになりぬとおぼえ候ふ。ただ不思議と信ぜさせたまひ候ひ ぬるうへは、わづらはしきはからひあるべからず候ふ。  またある人の候ふなること、出世のこころおほく浄土の業因すくなしと候ふ なるは、こころえがたく候ふ。出世と候ふも、浄土の業因と候ふも、みなひと つにて候ふなり。すべてこれ、なまじひなる御はからひと存じ候ふ。仏智不思 議と信ぜさせたまひ候ひなば、別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべ からず候ふ。ただひとびとのとかく申し候はんことをば、御不審あるべからず 候ふ。ただ如来の誓願にまかせまゐらせたまふべく候ふ。とかくの御はからひ あるべからず候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。    五月五日             親鸞[御判]   浄信御房へ  [袖書にいはく] P--783   他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり。 #225 (25)  六月一日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては、鎌倉にての御訴へのやうは、 おろおろうけたまはりて候ふ。この御文にたがはずうけたまはりて候ひしに、 別のことはよも候はじとおもひ候ひしに、御くだりうれしく候ふ。  おほかたはこの訴へのやうは、御身ひとりのことにはあらず候ふ。すべて浄 土の念仏者のことなり。このやうは、故聖人(源空)の御とき、この身どものや うやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず。性信 坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念仏申さんひとは、みなおなじここ ろに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまうすべきことにはあらず候ふべ し。念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがに申しなされんは、きはまれ るひがことに候ふべし。念仏申さんひとは、性信坊のかたうどにこそなりあは せたまふべけれ。母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとに て候ふ。さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひしか ば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころにいれて、 P--784 申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ。  御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候 ふ。詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料 はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候は ば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生 をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、 仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世 のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく 御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。  なほなほ、疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。よくよく御こころにい れて、往生一定とおもひさだめられ候ひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、 異事は候ふべからず。御念仏をこころにいれて申させたまふべしとおぼえ候 ふ。あなかしこ、あなかしこ。    七月九日             親鸞   性信御坊 P--785 #226 (26)  尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とて きらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本 願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふ かく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとな へざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがた く候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、 疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふとい ふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんと もがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こ ころえ候うて御念仏候ふべし。  この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候は んずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あ なかしこ。    七月十三日            親鸞   有阿弥陀仏[御返事] P--786 #227 (27)  まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづり すてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。世々生々に無量 無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては 生死を出でずありしゆゑに、曠劫多生のあひだ、諸仏・菩薩の御すすめにより て、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまゐらせて候ふ御恩をしらずし て、よろづの仏・菩薩をあだに申さんは、ふかき御恩をしらず候ふべし。仏法 をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添 へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、 天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにも すてられたまはず、いかにいはんや、よろづの仏・菩薩をあだにも申し、おろ かにおもひまゐらせ候ふべしや。よろづの仏をおろかに申さば、念仏を信ぜ ず、弥陀の御名をとなへぬ身にてこそ候はんずれ。詮ずるところは、そらごと を申し、ひがことをことにふれて、念仏のひとびとに仰せられつけて、念仏を とどめんとするところの領家・地頭・名主の御はからひどもの候ふらんこと、 よくよくやうあるべきことなり。そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏する P--787 ひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたるこ とに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。この世の ならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあ ることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず。念仏せんひとびとは、かの さまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんご ろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは 申され候ひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。  つぎに、念仏せさせたまふひとびとのこと、弥陀の御ちかひは煩悩具足のひ とのためなりと信ぜられ候ふは、めでたきやうなり。ただしわるきもののため なりとて、ことさらにひがことをこころにもおもひ、身にも口にも申すべしと は、浄土宗に申すことならねば、ひとびとにもかたること候はず。おほかた は、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたく候ひながら、往生を疑はずせ んとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も申すことにて候ふに、かかるわるき 身なれば、ひがことをことさらに好みて、念仏のひとびとのさはりとなり、師 P--788 のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしと申すことは、ゆめゆ めなきことなり。弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩 を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰し なされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候 ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことど もきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候は ば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者の とがになるべしとはおぼえず候ふ。よくよく御はからひども候ふべし。なほな ほ念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じ説かせたまふべし。あ なかしこ、あなかしこ。    九月二日             親鸞   念仏の人々御中へ #228 (28)  文書きてまゐらせ候ふ。この文を、ひとびとにも読みてきかせたまふべし。  遠江の尼御前の御こころにいれて御沙汰候ふらん、かへすがへすめでたくあ P--789 はれにおぼえ候ふ。よくよく京よりよろこび申すよしを申したまふべし。  信願坊が申すやう、かへすがへす不便のことなり。わるき身なればとて、こ とさらにひがことを好みて、師のため善知識のためにあしきことを沙汰し、念 仏のひとびとのためにとがとなるべきことをしらずは、仏恩をしらず、よくよ くはからひたまふべし。  また、ものにくるうて死にけんひとびとのことをもちて、信願坊がことを、 よしあしと申すべきにはあらず、念仏するひとの死にやうも、身より病をする ひとは、往生のやうを申すべからず。こころより病をするひとは天魔ともな り、地獄にもおつることにて候ふべし。こころよりおこる病と身よりおこる病 とは、かはるべければ、こころよりおこりて死ぬるひとのことを、よくよく御 はからひ候ふべし。  信願坊が申すやうは、凡夫のならひなれば、わるきこそ本なればとて、おも ふまじきことを好み、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことを申す べきやうに申され候ふこそ、信願坊が申しやうとはこころえず候ふ。往生にさ はりなければとて、ひがことを好むべしとは申したること候はず。かへすがへ P--790 す、こころえずおぼえ候ふ。  詮ずるところ、ひがこと申さんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなり 候はめ、すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼえず候ふ。  また念仏をとどめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなり候はめ。よろ づの念仏するひとのとがとなるべしとはおぼえず候ふ。「五濁増時多疑謗 道 俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)と、まのあ たり善導の御をしへ候ふぞかし。釈迦如来は、「名無眼人、名無耳人」と説か せたまひて候ふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもに くみなんどすることにても候ふらん。それはかのひとをにくまずして、念仏を ひとびと申してたすけんと、おもひあはせたまへとこそおぼえ候へ。あなかし こ、あなかしこ。    九月二日             親鸞   慈信坊 御返事  入信坊・真浄坊・法信坊にもこの文を読みきかせたまふべし。かへすがへす 不便のことに候ふ。性信坊には春のぼりて候ひしに、よくよく申して候ふ。く P--791 げどのにも、よくよくよろこび申したまふべし。このひとびとのひがことを 申しあうて候へばとて、道理をば失はれ候はじとこそおぼえ候へ。世間の事に も、さることの候ふぞかし。領家・地頭・名主のひがことすればとて、百姓 をまどはすことは候はぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるに たとへたるには、「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」(梵網経・意)と 候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり。よくよくこころえたま ふべし。なほなほ御文には申しつくすべくも候はず。 #229 (29)  武蔵よりとて、しむの入道どのと申す人と、正念房と申す人の王番にのぼら せたまひて候ふとておはしまして候ふ。みまゐらせて候ふ。御念仏の御こころ ざしおはしますと候へば、ことにうれしうめでたうおぼえ候ふ。御すすめと候 ふ。かへすがへすうれしうあはれに候ふ。なほなほ、よくよくすすめまゐらせ て、信心かはらぬやうに人々に申させたまふべし。如来の御ちかひのうへに、 釈尊の御ことなり。また十方恒沙の諸仏の御証誠なり。信心はかはらじとお もひ候へども、やうやうにかはりあはせたまひて候ふこと、ことになげきおも P--792 ひ候ふ。よくよくすすめまゐらせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。    九月七日             親鸞   性信御房  念仏のあひだのことゆゑに、御沙汰どものやうやうにきこえ候ふに、こころ やすくならせたまひて候ふと、この人々の御ものがたり候へば、ことにめでた ううれしう候ふ。なにごともなにごとも申しつくしがたく候ふ。いのち候は ば、またまた申し候ふべく候ふ。 #230 (30)  尋ね仰せられて候ふ摂取不捨のことは、『般舟三昧行道往生讃』と申すに仰 せられて候ふをみまゐらせて候へば、「釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父 母にて、さまざまの方便にて、われらが無上信心をばひらきおこさせたまふ」 と候へば、まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候 ふ。往生の心疑なくなり候ふは、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。 摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候ふ。浄土へ往生す るまでは不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはします P--793 ことにて候ふなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひ にて発起せしめたまひ候ふとみえて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづ かるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るる までは候ふべしとみえ候ふなり。ともかくも行者のはからひをちりばかりも あるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。あなかしこ、あなかし こ。    十月六日            親鸞   しのぶの御房の御返事 #231 (31)  ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしま ゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしる して候ふ。  詮ずるところは、無碍光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく 候ふ。無碍光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなくたす けさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。あなかしこ、 P--794 あなかしこ。    十月二十一日           親鸞   唯信御坊 御返事 #232 (32)  尋ね仰せられて候ふこと、かへすがへすめでたう候ふ。まことの信心をえた る人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来 とひとしき人」と経(華厳経)に説かれ候ふなり。弥勒はいまだ仏に成りたま はねども、このたびかならずかならず仏に成りたまふべきによりて、弥勒をば すでに弥勒仏と申し候ふなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひ としと仰せられて候ふなり。また承信房の、弥勒とひとしと候ふも、ひがこと には候はねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候ふ を、自力なりと候ふらんは、いますこし承信房の御こころの底のゆきつかぬや うにきこえ候ふこそ、よくよく御案候ふべくや候ふらん。自力のこころにて、 わが身は如来とひとしと候ふらんは、まことにあしう候ふべし。他力の信心の ゆゑに、浄信房のよろこばせたまひ候ふらんは、なにかは自力にて候ふべき。 P--795 よくよく御はからひ候ふべし。このやうは、この人々にくはしう申して候ふ。 承信の御房にとひまゐらせさせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。    十月二十一日           親鸞   浄信御房 御返事 #233 (33)  九月二十七日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては御こころざしの銭五貫文、 十一月九日にたまはりて候ふ。  さてはゐなかのひとびと、みなとしごろ念仏せしは、いたづらごとにてあり けりとて、かたがたひとびとやうやうに申すなることこそ、かへすがへす不便 のことにきこえ候へ。やうやうの文どもを書きてもてるを、いかにみなして候 ふやらん。かへすがへすおぼつかなく候ふ。  慈信坊のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、日ごろの念仏 は、みないたづらごとなりと候へばとて、おほぶの中太郎の方のひとは九十な ん人とかや、みな慈信坊の方へとて中太郎入道をすてたるとかやきき候ふ。い かなるやうにてさやうには候ふぞ。詮ずるところ、信心の定まらざりけるとき P--796 き候ふ。いかやうなることにて、さほどにおほくのひとびとのたぢろき候ふら ん。不便のやうときき候ふ。またかやうのきこえなんど候へば、そらごともお ほく候ふべし。また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信 鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、 かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも、みなそらごとになりて候ふときこえ 候ふは、いかやうにすすめられたるやらん。不可思議のことときき候ふこそ、 不便に候へ。よくよくきかせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。    十一月九日            親鸞   慈信御坊  真仏坊・性信坊・入信坊、このひとびとのこと、うけたまはり候ふ。かへす がへす、なげきおぼえ候へども、ちからおよばず候ふ。また余のひとびとのお なじこころならず候ふらんも、ちからおよばず候ふ。ひとびとのおなじこころ ならず候へば、とかく申すにおよばず。いまはひとのうへも申すべきにあらず 候ふ。よくよくこころえたまふべし。                     親鸞 P--797   慈信御坊 #234   (34)    ある人のいはく   往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまゐらせ候ひ   ぬれば同一なり。このゆゑに不審なし。このゆゑに、はじめてまた信・不   信を論じ尋ねまうすべきにあらずとなり。このゆゑに他力なり、義なきが   なかの義となり。ただ無明なることおほはるる煩悩ばかりとなり。恐々   謹言。      十一月一日                    専信上  仰せ候ふところの往生の業因は、真実信心をうるとき摂取不捨にあづかると おもへば、かならずかならず如来の誓願に住すと、悲願にみえたり。「設我得仏  国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」(大経・上)と誓ひたまへり。 正定聚に信心の人は住したまへりとおぼしめし候ひなば、行者のはからひの なきゆゑに、義なきを義とすと他力をば申すなり。善とも悪とも、浄とも穢と P--798 も、行者のはからひなき身とならせたまひて候へばこそ、義なきを義とすとは 申すことにて候へ。  十七の願に「わがなをとなへられん」と誓ひたまひて、十八の願に、「信心 まことならば、もし生れずは仏に成らじ」と誓ひたまへり。十七・十八の悲願 みなまことならば、正定聚の願(第十一願)はせんなく候ふべきか。補処の弥 勒におなじ位に信心の人はならせたまふゆゑに、摂取不捨とは定められて候 へ。このゆゑに、他力と申すは行者のはからひのちりばかりもいらぬなり。か るがゆゑに義なきを義とすと申すなり。このほかにまた申すべきことなし、た だ仏にまかせまゐらせたまへと、大師聖人(源空)のみことにて候へ。    十一月十八日           親鸞   専信御坊 御報 #235 (35)                 「御返事(花押)」  常陸の人々の御中へ、この文をみせさせたまへ。すこしもかはらず候ふ。こ の文にすぐべからず候へば、この文をくにの人々、おなじこころに候はんずら P--799 ん。あなかしこ、あなかしこ。    十一月十一日           (花押)   いまごぜんのははに #236 (36)  このいまごぜんのははの、たのむかたもなく、そらうをもちて候はばこそ、 譲りもし候はめ。せんしに候ひなば、くにの人々いとほしうせさせたまふべく 候ふ。この文を書く常陸の人々をたのみまゐらせて候へば、申しおきてあはれ みあはせたまふべく候ふ。この文をごらんあるべく候ふ。このそくしやうばう も、すぐべきやうもなきものにて候へば、申しおくべきやうも候はず。身のか なはず、わびしう候ふことは、ただこのこと、おなじことにて候ふ。ときにこ のそくしやうばうにも、申しおかず候ふ。常陸の人々ばかりぞ、このものども をも、御あはれみ、あはれ候ふべからん。いとほしう、人々あはれみおぼしめ すべし。この文にて、人々おなじ御こころに候ふべし。あなかしこ、あなかし こ。    十一月十二日 P--800                 ぜんしん(花押)   常陸の人々の御中へ    常陸の人々の御中へ        (花押) #237 (37)  なによりも聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしら ずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふ べしと仰せられ候ふなるこそ、かへすがへすあるべくも候はず。北の郡にあり し善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにしをばみざり けるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、人 をもころしなんどすべきかは。もとぬすみごころあらん人も、極楽をねがひ念 仏を申すほどのことになりなば、もとひがうたるこころをもおもひなほしてこ そあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずといふこ と、ゆめゆめあるべからず候ふ。煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすま じきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおも P--801 ふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すま じきことをもし、いふまじきことをもいはば、煩悩にくるはされたる儀にはあ らで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。  鹿島・行方のひとびとのあしからんことをばいひとどめ、その辺の人々の、 ことにひがみたることをば制したまはばこそ、この辺より出できたるしるしに ては候はめ。ふるまひはなにともこころにまかせよといひつると候ふらん、あ さましきことに候ふ。この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらん こそ、世をいとひ念仏申すことにては候へ。としごろ念仏するひとなんどの、 ひとのためにあしきことをし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。  されば善導の御をしへには、「悪をこのむ人をばつつしんでとほざかれ」(散 善義・意)とこそ、至誠心のなかにはをしへおかせおはしまして候へ。いつか わがこころのわろきにまかせてふるまへとは候ふ。おほかた経釈をもしらず、 如来の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はず。あなかし こ、あなかしこ。    十一月二十四日          親鸞 P--802 #238 (38)  他力のなかには自力と申すことは候ふときき候ひき。他力のなかにまた他力 と申すことはきき候はず。他力のなかに自力と申すことは、雑行雑修・定心念 仏・散心念仏をこころがけられて候ふひとびとは、他力のなかの自力のひとび となり。他力のなかにまた他力と申すことはうけたまはり候はず。なにごとも 専信房のしばらくも居たらんと候へば、そのとき申し候ふべし。あなかしこ、 あなかしこ。銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ。あなかしこ、あなか しこ。    十一月二十五日          親鸞 #239 (39)  御たづね候ふことは、弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信 心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき、摂取して捨てられまゐらせざる ゆゑに、金剛心になるときを正定聚の位に住すとも申す。弥勒菩薩とおなじ 位になるとも説かれて候ふめり。弥勒とひとつ位になるゆゑに、信心まことな るひとを、仏にひとしとも申す。  また諸仏の真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひと P--803 しきものなりと説かせたまひて候ふなり。『大経』(下)には、釈尊のみことば に、「見敬得大慶則我善親友」とよろこばせたまひ候へば、信心をえたるひと は諸仏とひとしと説かれて候ふめり。また弥勒をば、すでに仏に成らせたまは んことあるべきにならせたまひて候へばとて、弥勒仏と申すなり。しかればす でに他力の信をえたるひとをも、仏とひとしと申すべしとみえたり。御疑あ るべからず候ふ。  御同行の「臨終を期して」と仰せられ候ふらんは、ちからおよばぬことなり。 信心まことにならせたまひて候ふひとは、誓願の利益にて候ふうへに、摂取し て捨てずと候へば、来迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼえ候へ。い まだ信心定まらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまふべし。  この御文主の御名は随信房と仰せられ候はば、めでたく候ふべし。この御文 の書きやうめでたく候ふ。御同行の仰せられやうはこころえず候ふ。それをば ちからおよばず候ふ。あなかしこ、あなかしこ。    十一月二十六日          親鸞   随信御房 P--804 #240 (40)  このゑん仏ばう、くだられ候ふ。こころざしのふかく候ふゆゑに、主などに もしられまうさずして、のぼられて候ふぞ、こころにいれて、主などにも、仰 せられ候ふべく候ふ。この十日の夜、せうまうにあうて候ふ。この御ばうよく よくたづね候ひて候ふなり。こころざしありがたきやうに候ふぞ、さだめてこ のやうは申され候はんずらん、よくよくきかせたまふべく候ふ。なにごともな にごともいそがしさに、くはしう申さず候ふ。あなかしこ、あなかしこ。    十二月十五日           (花押)   真仏御房へ #241 (41)  護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文、御こころざしのものたまはりて 候ふ。さきに念仏のすすめのもの、かたがたの御中よりとて、たしかにたまは りて候ひき。ひとびとによろこび申させたまふべく候ふ。この御返事にて、お なじ御こころに申させたまふべく候ふ。  さてはこの御たづね候ふことは、まことによき御疑どもにて候ふべし。ま づ一念にて往生の業因はたれりと申し候ふは、まことにさるべきことにて候ふ P--805 べし。さればとて、一念のほかに念仏を申すまじきことには候はず。そのやう は『唯信鈔』にくはしく候ふ。よくよく御覧候ふべし。一念のほかにあまると ころの念仏は、十方の衆生に回向すべしと候ふも、さるべきことにて候ふべ し。十方の衆生に回向すればとて、二念・三念せんは往生にあしきこととおぼ しめされ候はば、ひがことにて候ふべし。念仏往生の本願とこそ仰せられて候 へば、おほく申さんも、一念・一称も、往生すべしとこそうけたまはりて候 へ。かならず一念ばかりにて往生すといひて、多念をせんは往生すまじきと申 すことは、ゆめゆめあるまじきことなり。『唯信鈔』をよくよく御覧候ふべ し。  また有念・無念と申すことは、他力の法文にはあらぬことにて候ふ。聖道門 に申すことにて候ふなり。みな自力聖道の法文なり。阿弥陀如来の選択本願 念仏は、有念の義にもあらず、無念の義にもあらずと申し候ふなり。いかなる ひと申し候ふとも、ゆめゆめもちゐさせたまふべからず候ふ。聖道に申すこと を、あしざまにききなして、浄土宗に申すにてぞ候ふらん。さらさらゆめゆ め、もちゐさせたまふまじく候ふ。また慶喜と申し候ふことは、他力の信心を P--806 えて往生を一定してんずとよろこぶこころを申すなり。常陸国中の念仏者のな かに有念・無念の念仏沙汰のきこえ候ふは、ひがことに候ふと申し候ひにき。 ただ詮ずるところは、他力のやうは行者のはからひにてはあらず候へば、有念 にあらず、無念にあらずと申すことを、あしうききなして、有念・無念なん ど申し候ひけるとおぼえ候ふ。弥陀の選択本願は行者のはからひの候はねばこ そ、ひとへに他力とは申すことにて候へ。一念こそよけれ、多念こそよけれな んど申すことも、ゆめゆめあるべからず候ふ。なほなほ一念のほかにあまると ころの御念仏を法界衆生に回向すと候ふは、釈迦・弥陀如来の御恩を報じまゐ らせんとて、十方衆生に回向せられ候ふらんは、さるべく候へども、二念・三 念申して往生せんひとを、ひがこととは候ふべからず。よくよく『唯信鈔』を 御覧候ふべし。念仏往生の御ちかひなれば、一念・十念も往生はひがことにあ らずとおぼしめすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。    十二月二十六日          親鸞   教忍御坊 御返事 P--807 #242 (42)  『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏 名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについてい ふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行 にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因な り。能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁な り、所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 #243 (43)  くだらせたまひてのち、なにごとか候ふらん。この源藤四郎殿におもはざる にあひまゐらせて候ふ。便のうれしさに申し候ふ。そののちなにごとか候ふ。  念仏の訴へのこと、しづまりて候ふよし、かたがたよりうけたまはり候へ ば、うれしうこそ候へ。いまはよくよく念仏もひろまり候はんずらんとよろこ びいりて候ふ。  これにつけても御身の料はいま定まらせたまひたり。念仏を御こころにいれ てつねに申して、念仏そしらんひとびと、この世・のちの世までのことを、い のりあはせたまふべく候ふ。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせ P--808 たまふべき。ただひがうたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれと おぼしめしあはば、仏の御恩を報じまゐらせたまふになり候ふべし。よくよく 御こころにいれて申しあはせたまふべく候ふ。聖人(源空)の二十五日の御念 仏も、詮ずるところは、かやうの邪見のものをたすけん料にこそ、申しあはせ たまへと申すことにて候へば、よくよく念仏そしらんひとをたすかれとおぼし めして、念仏しあはせたまふべく候ふ。  またなにごとも、度々便には申し候ひき。源藤四郎殿の便にうれしうて申し 候ふ。あなかしこ、あなかしこ。  入西御坊のかたへも申したう候へども、おなじことなれば、このやうをつた へたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。                     親鸞   性信御坊へ